『深い河』遠藤 周作著 感想文

深い河感想文

「深い河」を読むのは、これで三度目になります。
そして、この本は読むたびに、新たな気づきがあり私にとって非常に大切な本です。

この小説から受ける印象は人により大きく異なる

この小説は、神、人間の苦悩、孤独、愛 等といった個々人により考え方が大きく異なるテーマを扱っています。

筆者は、これらのテーマに対して、インドに向かうに至った登場人物の置かれた状況を説明し、登場人物の心の変化を使いながら自分の考えを小説の中に断片的に散らばせて吐露しています。

そして、筆者は登場人物を通してこれらのテーマを読者に考えさせる、感じさせる手法を取っていると思います。
そのため、読者ごとに、この小説から受ける印象は大きく異なってくると思いました。

筆者の深い知識、扱われているテーマから、この小説を読み解くことなど、浅学な私には到底無理ですが現在感じていることを述べたいと思います。

この小説の根本には、人間の持って生まれた本性とそこから生まれる『無明の闇』かある

この小説の根本にあるものは、人間の持って生まれた本性(生存本能)とそこから生まれる苦悩、後悔、哀しみ、孤独にあると思いました。

人間の持って生まれた本性(生存本能)とは。
アドラーは、人間を根本的に動かしているのは、「優越を求める心」だと言っています。

人間の「優越を求める心」の先には「欲」があると思います。
そしてそれは、私たちの心の奥に棲みつき、愛欲、名誉欲、利益欲等として私たちをふりまわします。
その意味で、人間は「欲」の塊で、その「欲」をさまたげられて出てくるのが「怒り」であると思います。

これが私たちの持って生まれた本性(生存本能)です。そして私たちは、生きている限り逃れられない「煩悩(欲、怒り)」にさいなまれます。

これが、本書の『無明の闇』ではないかと思います。

人間は善と悪が混在している存在

本書では『無明の闇』から生まれる人間のもつ本性を、主に美津子の心の動きを通して表していると思います。

彼女の邪悪な心は、大津を愛欲を利用して誘惑し神(玉ねぎ)を棄てさせようとします。

また、「愛情のまねごと」と知りつつ始めた病院ボランティアでは、老女に対し「どうせこの人は薬を飲んでも治らぬ病人なんだから。もう誰にも役に立たぬだけでなく、家族にも重荷になっているこの老女を早く楽にしてあげるほうが、よほど良いことだわ」と邪悪な心をさらけ出させています。

そして、美津子に善も悪も混在しているヒンズー教の女神に自分を重ね合わさせることにより、人間は善と悪が混在している存在であることを示していると感じました。

また、このことを本書では、ヒンズー教の神々の彫像を見て「像の気味の悪さには、人間がおのれの意識下にうごめくもの、意識下に隠れているものをまともに眼にする嫌悪感があった」と人間の心の奥(本性)を表現しています。

このように人間は『無明の闇』から生み出された自身の心、そしてその行動の結果に、苦悩し、後悔し、哀しみ、孤独になるのだと思います。

ヒンズー教徒は、自身の罪の浄化のために長い旅を続け「母なるガンジス河」に年間100万人も集まります。
そしてガンジス河は、死者や深い『無明の闇』を抱えている人間の「心の秘密」を抱きかかえて黙々と流れてゆきます。

『深い河』とは、人間の深い『無明の闇』から生まれる苦悩と、あらゆるものを抱きとめる「母なるガンジス河」のふところの深さからタイトルとしたのかなと思いました(きっと筆者はもっと深い意味を込めてると思います)。

日本人も印度人と同様に人間の深い『無明の闇』がある

印度人が味わわなければならなかった苦しみ、そして現在の苦しみを女神チャームンダーに現わしています。

それでは日本はどうかというと、日本人の苦悩は、巧妙にマスクされたりしているため、印度のようにあからさまには見えません。

しかし、日本にも人間の深い『無明の闇』があると私は感じています。

それは、自殺者、うつ病患者、いじめ、SNSでの誹謗中傷、そして最近マスコミを賑わしている引きこもり(これは、先の例と一概に同列に扱えませんが)の数の多さに表れているのではないでしょうか。

美津子の探し求めている『何か』が、この本の主題か?

筆者は、美津子には彼女の心の動きを通して、この小説のナレータの役割を与えていると思います。

筆者は、美津子に「自分は一体、何を探しているのだろう。一体、何がほしいのだろ、わたしは…」「確実で根のあるものを。人生を掴みたい」と言わせています。この『何か』が、この小説で筆者が示したかったことではないかと感じました。

筆者は、美津子を愛の枯渇した女、愛の火種のない女であるとし、それを「魂の闇」と表現することにより彼女の愛の欠如を強調しています。

 

そして、筆者は美津子を聞き役として、大津に神そして愛について語らせます。

大津は神について「神は存在というより、働きです。神(玉ねぎ)は愛の働く塊りであり愛そのものだ」と言います。

また、「母を通してぼくがただひとつ『信じる』ことのできたのは、母のぬくもりでした」と、つぎに「母のぬくもりの源にあったのは神(玉ねぎ)の一片『愛』だったと気づきました」と大津が語ります。

そして、この小説の最後の最後に、口から泡をふき死にかけている老婆を助けようとするマザー・テレサの修道女に、美津子は何のために、そんなことを、なさっているのですか」と尋ねるくだりがあります。

それに対して、修道女はそれしか…この世界で『信じられるもの』がありませんもの。わたしには」と答えます。
「それしか」とは、『信じる』という言葉から、先の母のぬくもり、つまり神(玉ねぎ)の一片『愛』だと思いました。

 

これらのことから、美津子の探し求める『何か』、筆者がこの小説で最も示したいことは大津に語らせた、現在の世界のなかで、最も欠如していて、誰もが信じない、そして、せせら笑われている『愛』だと想像しました。

筆者が言いたかった「転生」とは、死んでも『愛』として『愛』する人の心に生きつづけること!

この小説は、磯辺の妻が亡くなる最後の譫言「わたくし…必ず…生まれかわるから、この世界のどこかに。探して…わたくしを見つけて…約束よ、約束よ」で始まります。

また、ガンジス河の沐浴が輪廻転生からの解脱を意味することから、当初は『転生』をスピリチュアル(霊的)な「生まれ変わり」のことだと考えていました。

しかし、磯辺は人生のなかで本当にふれあった人間はたった二人、母親と妻しかいなかったこと、そして妻の自分に対する深い『愛』と妻への『愛』に気づきます。

磯辺は疑いながらも印度で妻の「生まれ変わり」を探し回りますが見つけ出せません。
ついに自分の愚かな行為に落胆する磯辺に、美津子が「少なくとも奥さまは磯辺さんのなかに、確かに転生していらっしゃいます」とはなします。

また、大津は「神(玉ねぎ)は彼等の心のなかに生きつづけました。神(玉ねぎ)は死にました。でも弟子たちのなかに「転生」したのです。玉ねぎは今、あなたの前にいるこの僕のなかにも生きているんですからと話します。

このことから、筆者が本当に言いたかった「転生」とは、死んでも『愛』として『愛』する人の心に生きつづけることではないかと思いました。

 

小説中では、人肉を食したことを苦悩する塚田の心に、ガストンの『愛』が転生し、塚田の苦悩を消し去ります。

沼田の心の寂しさに、動物(クロ、犀鳥、九官鳥)の『愛』が転生し孤独を和らげます。

マラリヤにかかり死を覚悟した木田を塚田の『愛』が助けます。

筆者は、美津子に「なお気持ち悪いわ、まじめな顔をして愛なんて恥ずかしい言葉を使われると」と語らせています。

筆者は、当時の「偽善」に満ちた日本社会で『愛』をテーマにする危うさをよく知っていたと思います。

それでも敢えて筆者は本書を通して、読者に次のことを語りかけているのだと感じました。

『無明の闇』のなかで苦悩し生きるあなたにも、希望の光がさしていますよ。
それはあなたの中にある『愛』です。
そうです『愛』はあなたのなかに既に「転生」しています。そのことに気づきなさい。
そして、あなたは、ほかの人に『愛』を示すことにより、あなたは「転生」し生きつづけるのです。

最後に!

現在の日本社会では、「勝ち組、負け組」という言葉をよく耳にします。
私たちは、幼いころより競争することをしいられ、社会に出てからも厳しい競争を求められます。

このような状況の中で、私たちは他者を押しのけ勝つために自分の欲(愛欲、名誉欲、利益欲等)を優先し、正当化しがちです。

しかし、現在の社会でも強く求められれているのは、筆者が語る「最も欠如していて、誰もが信じない、そして、せせら笑われている『愛』」だと感じます


人間は善と悪が混在している存在です!